思い知る


クラブチームの後輩が世界選手権に出場する。


今日は、彼とともに全日本の団体戦に出場してきた。自分の試合内容は、苦しい今年の状況から考えると十分に収穫といえる内容と結果だったと言っていい。チーム全体としては、地元から将来につながる新戦力を迎えて、名門再建への一歩、といえるものだったのではないかな、と思っている。


世界選手権直前ながら大会に出場してくれた彼は、個人3冠にこそ一歩およばなかったが、重要な大会前の調整として十分に意義のある内容で試合を終えることができた。


彼はエンジニアとして働きつつ、平日の夜と週末を練習に費やしてこつこつと力を蓄えてきた。いわば私が目指してきたスタイルで、ここまで結果を積み上げてきた。


彼には、昨年の終わりから今年にかけて、一気に抜き去られた。
自分がいよいよ射撃に力を注げなくなって、どうにもならなくなっていった時期と重なったこともあり、呆然と見送る、というような格好になった。
彼の躍進で「一事に徹底できない自分」をあらためて知ることになった。


それは、ある種の「バランスの良さ」であり、ある種のあれもこれもの「欲張り」であり、どこかで「人の良さ、憎まれなさ」を優先する「甘さ」である。
勝負をする人間として物足りないが、しかしそれでも勝つならば、それは忌避すべきものではなく、かえって長所といえるだろう、と思ってきた。それらを「良さ」として、そのままにしながら、なおかつ射撃でもどんどん上を追求できる、と思っていた。


私のスタンスは、射撃を中心に観た場合、射撃以外からどんどん射撃を削り取られても仕方がないようになっている。それでも前進できるのは、全部削り取られない限り、残ったわずかで前進できてしまえる、という特性にある。すべてを意味のある努力にしてしまえる、というところに自分は賭けていたし、そこだけが今でも自分を支えている。
この半年は、そうやっていくと、あまりにあっけなく射撃は削り取られていくことに(ようやく)気がついて愕然としている、というところだろうか。


「削り取られる」範囲が、精神面に及んできたことに、実はとても参っている。


たしかに忙しく、身体も参っている。年齢的なものも少しあるかもしれない。
しかしそれを差し引いても、他から気力や時間や体力を削りだして取り組む、という風に、なれなくなってきたのではないか。
もともと強くはなかったハングリーさが、一層なくなって、ついにだめになってきているのではないか。このまま気持ちから衰えていくのではないか。


生活があり、仕事があり、そこに余暇という枠でスポーツがあり、「年齢相応」という見地からはどんどん異端であることが露わになっていく。
どこかで「趣味」・「余暇」で括れない領域に踏み込んでいることが自負であったのだが、逆にそうであることが自分の首をどんどん絞めてくるような感じ。


そんな不安は、「何のためにやっているのか?どうなりたいのか?」という疑問とも結びついてゆく。



今は、現場を離れた先輩のように、すっきりした気持ちで彼を送り出している。
クラブのほかの人々が、あたたかく彼を応援する姿に、自分もうれしくなっている。


捲土重来を図る時期がいずれ来る、と今は思っている。今も「残ったわずか」での前進は続いているし、技術的な更新と蓄積は続いている。それをきちんとぶつける時期を自分で用意しようと思っている。
その時に何を目指すのか?


今はまだよくわからない。


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