困った記事


http://www.47news.jp/47topics/premium/e/238413.php
このレベルの議論からやらないといけないのか…。
げんなりしますが、スルーもできません。


議論することはもちろん必要です。
しかし射撃競技関係者として、われわれはまず、「何を競っているのか」が間違って伝わる余地のない、競技者であり、指導者であることを目指していかねばなりません。


私は、指導者として若い選手を前にするとき、「射撃がスポーツであることを、もっと理解せよ」と決まって話します。


外界から入る情報に身体を使ってどう反応するか、をスポーツの本質とするならば、そこにパワーや体格など、努力によっては如何ともしがたい個人差となる物理的な要素を介在させずに、その本質を競うことのできる、数少ないスポーツが競技射撃です。


銃器は、人々に様々なイメージを喚起させる、呪器としての生々しさを持っています。
われわれには、剣と包丁以上に距離を感じる、競技銃と軍用銃のふたつをごちゃ混ぜにして語る雑な議論。そんなものに、つきあわねばならないという憂鬱は相当に深いものがありますが、競技射撃をする者には、呪器の側面のあるものを道具として使う以上、その側面をそぎ落とすべく語る義務があるでしょう。
ただうんざりするだけでなく、(この記者には難しくても、もう少し話を聞いてくれる余力のある人々に対しては、)誤解を減らしていく努力をせねばなりません。


60年以上前にすでに道具として完成されつくした競技用ライフル銃は、厳しいレギュレーションのもと、製品間に実質的な性能差はありません。
入門者も世界チャンピオンも、ファクトリーメイドの同じ道具を使います。(というより、使わざるを得ないのです。)安物の選択肢が一切ない、という変な状況ゆえに、どんなスポーツよりも道具面での格差がありません。
定年を機に射撃を始めるおじさんも、貧乏な大学射撃部の学生も、ナショナルチームの選手と一緒で、ドイツの数少ないメーカー製の、わずか2‐3のモデルの中から銃を買わざるを得ないのです。


射撃場に足を運んでその辺の射手から話を聞き、それからインターネットでISSF(国際スポーツ射撃連盟)の動画でもいくつか見れば、そのあたりの(特殊な)実情はわかることです。その程度のことがわかっていれば、「銃器の性能を競っている」という記事を公にすることの恥ずかしさもわかると思うのですが。
代表組織に問い合わせれば「取材足れり」とし(もちろん事務局の回答がいまひとつだったということはあるかもしれません、しかしそれでも、)観念的な筋に煽動的なフレーズで正義感に酔ってしまう…というのは、ジャーナリストとして典型的にまずいのではないでしょうか。


記者の記事から読み取るに、道具を主役に置く誤解があるようです。
F1マシンのように一握りの最先端の競技者だけが手にする孤高のツールを使うスポーツではないのです。(ですから、残念ながら、F1のような、工学的な技術にワクワクする楽しみ方はできません)。まして、道具である銃の技術革新が勝敗を左右することはありません。


10mで0.5mm、50mで1cmという、相当の距離と小さな的と、精度の面で常に真ん中に当たることが保証された道具、というシチュエーションの中でしか表現できない、微細な身体のコントロール技術を競うのが射撃競技なのです。
外界から入る情報、すなわち重力と光と風、を読み、感覚を研ぎ澄ませて、身体を究極の精度で制御することでこれらに対応する、そういうスポーツです。
この能力の微細な、しかし歴然と存在する差を表現しうるものが、地球上には「銃」という道具しかない、ということをどうやったら理解してもらえるか。精度を表現する道具として特異な位置を占めていることを、どうやったら伝えられるか。


禍々しい用途に、同種の道具が用いられる不幸を、様々な意味で(独特の意味で)乗り越える知恵が射撃競技者には求められています。


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