二度目の運動会


運動会当日。
「お父さん」は、7時から会場設営のお手伝いである。


子どもたちの登園は9時前でいいので、一旦迎えに帰るところも多いのだけれど、うちはそれをするにはちょっと遠いので、朝、家に車を残して、駅でFさんと待ち合わせて、車に乗せてもらって園に向かった。
気持ちいい青空だったので、「いい天気になった」、と喜んだけれど、それでも「お昼からは雨」とのことで、昨年に引き続き天候的にはぎりぎりの開催ということになるようだ。


去年は、準備に行っても、何をしたらいいかおろおろしたけれど、勝手のわかっている今年は、ほいほい動くことができた。
板を組み合わせて置く、シンプルな構造のベンチと机代わりにもなる台をならべて観客席を作る。グラウンドにアップライトのピアノを出して、音響に詳しい保護者が、ミキサーやアンプ、スピーカーをセットする。


お父さんたちの動きは抜群で、30分ほどのあっという間に会場は出来上がった。
去年もそうだったけれど、出来上がった運動場を前に、子どもたちが集まってくるまで焼いてもらったパンやインスタントコーヒーなんかをのんびりといただきながら待つ朝の時間が、とってもいい。一仕事して、何もすることがなくなった男たちが、大きな縁側のような板の間で静かにくつろぐ。


8時ごろになると人が集まってきた。
前夜からうちに泊まってくださった相方の母と一緒に、娘と相方も到着した。珍しく何だか随分早い到着だった。
昨日、法事に行って、姪っ子たちと大興奮したらしく夜は熱っぽかったので心配したが、浣腸が効いたのか、なんとか熱は下がって、大丈夫のようである。卒園式も高熱だったので、園では大きな行事で熱が出ちゃう子、ということになっているらしい。出番直前まで、長袖長ズボンを上から着せてもらって、待機していた。
私たちは、今年もまた坂道を背にした上手側の席に、はだしになって陣取り、はじまるのを待った。


ひとつ大きくなると、昨年と違って出番が多くなった。
リレーこそまだ出ないけれど、周回するリズムは最後にちゃんと出番があるし、かけっこもフィールドを横切るのでなく、ぐるっと回って走るようになった。
障害走は、布ロープを手繰って立てかけた板を登り、逆のスロープを駆け下りたり滑り降りたりするものになった。


多くの子がもう3歳になっている、2歳児グループの中では、娘はやっぱり(体格はともかく)おちびさんで、スロープは駆け下りてくる子が多い中、まだ慎重に滑って降りてきたし、かけっこの様子も、のんびりしたものだった。コースを大きく内側にそれたりする、なんとなく要領のよさそうな感じや見られていることを意識して愛想を振りまいたりするところが、ああ、やっぱりなあ、と思わされて可笑しかった。
小山に登る演目で、入園間もないまだあまり慣れていない子の手を引いて、助けていたのに感心した。


おみこしをしてグラウンドを練り歩く親子の出番は、相方の母と一緒に出た。娘は大喜びだった。親だけの出番は一手に私が引き受けた。それなりに一生懸命やらないとできないことばかりで、こどもたちがどんな風に見ているのかまでなかなか気が回らなかったのだけれど、相方によると、2歳児のグループの子達は、自分の親が出るたびにお互いにあれがそうだと教えあって随分盛り上がって見ていたという。なるほど、がんばる甲斐があるというものだ。


昼前に天候は大きく崩れ、ぱらぱらと雨が落ちてきた。外でしかできないリレーなどの演目を小雨の中、前倒しして行って、慌しく建物の中に引き上げる。
椅子や道具をみんなで手分けして運び込み、あっという間にホールに会場が移った。みんなが何かしら手伝い、保護者と先生が連携する動きのよさには、すごいものがある。
午前の残りの演目は、保護者によるものがほとんどだったけれど、それをさっと済ませると、お昼ごはんになった。


私の実家は、祖父の施設入居とぶつかったため、来ることができなかったが、相方の方は父もお昼に駆けつけてくださった。娘はにぎやかに囲むお弁当に大喜びで、おにぎりや煮物を頬張った。


その後娘は奥の部屋でお昼寝に入った。午後の出番がないのは去年と同じである。まだまだ2歳は保育園でもちびっこなのだ。
午後の子どもたちを眺めるに、3歳、4歳、5歳はそれぞれに、ぐっとお姉さん、お兄さんで、身体の使い方や、ルールに沿った動きに違いが見えて、この時期の成長というのは、まさに「発達」という言葉を充てるにふさわしい変化だと改めて思う。
相方なんかは、一心に身体を操って板塀や丸太、縄などの障害を乗り越える年長児の姿を見るだけで涙をこぼしたりするくらい、子どもについては感激家なのだが、その感じは私もわかる気がする。


来年は、いよいよ午後の玉入れや綱引きにも娘が登場するのかと思うと、「1年」という時間は随分と重みのあるものだと思う。
ある程度の歳になると、繰り返しの部分が増えて、「1年」は随分平板に繰り返してしまっている。変化や成長と重ね合わせることで、「時間」の中にある可能性のようなものを肌で感じられるのは、このくらいの時期の子育てだけかもしれない。


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